きょうはかなよさんも途中でぬけ、カマメもココルームも開けたまま一人で走り回る
こういうときにかぎってお店にお客さんが来る来る
打ち合わせもまともにできないまま
ともかくお店をアサダさんにおねがいして、これ以上お店にお客さんが来ないようにココルームに張り紙をして鍵もしめて
今度レジデンスに来る予定の方が、きょうWSの成果を発表する機会があるというので
どんなことをされる方なのか、事前に知っておきたいと思って、急いで電車にのる
急いだけれど結局その人の出番は終わっていて、でも知っている人がたくさん発表者にいて 後半を見てゆく
そこで発表されたたくさんのパフォーマンスの中で
自分を傷つけるというパフォーマンスをした人がいた
目の前で
そこでなにがなされたか 書くこともできない
その人は「リストカットをする人のきもちがわからないからやってみた」と言った
リストカット というのはさまざまな処理しきれないものが表面に現れたもののひとつ ではないかとおもい
それが別のかたちで表面にあらわれることもあるはずで だから
大切なのは表面にあらわれた行為の形式をただなぞることではなく、その根本にあるものと向き合う行為なのだとおもう
向き合い関わり、そこからなにかを立ち上げることがアートにできる行為なのだとおもう
即物的表面的な行為を表現する意外の別のアプローチがもっとあるとおもう
その自分を傷つける行為を わたしは見ることなんてできなくてずっと目を伏せていた 目をとじて なぜか、西成のまちを思い出した
なぜか なみだがとじた目の中にたまって
もしかしたら、傷つけないといられないなにかが、その人の中にもあったのだろうか
会場には何度もリストカットを経験している方もいたが
やはり目を伏せていた
以前、石内都さんという写真家の方の写真もわたしは目をそむけたことがある
写真は人のからだに残る治った傷跡の写真たち
痛々しく生々しいしれらをみているとからだ中が痛くうずくようなかんじで スライドショーで写真が何枚も流れていく途中見ていられなくなった
でもそのときには、目をそらしてはいけない と感じ 必死にその画面と向き合った
今日感じた感覚とはまったく別の感覚
それはその後、石内さんから話された「その傷は他者のものでありしかし、自分のものであったかもしれない」 ということばで腑に落ちた
傷は自分と切り離されたまったく別の世界のものでなく自分の延長にあり、それは他者がもちろん自分の延長にある存在であるとういことであり
傷はその人の生きた歴史であり、目をそむけたくなったり隠したりしていることが多いものだけれど、それはまぎれもない生の証で
その他者の中に自分を見ることを引き受けて撮られた写真だった
自己と他者が切り離された中から立ち上がる、自己の表現が 他者 に与えるものって
やはりないんじゃないか とおもう そもそも他者性がないのだから
もんもんと なんだかいやな想いをひきずって ココルームへ帰り
きょうこんなことがあった としゃべって そして、あっこさんつくってくれたやさいたっぷりのラーメンをたべ 落ち着く
そしてまたしごと
ココルームがあいていて たまったものを少しでもはきだせて、おいしいごはんで落ちつけて
ああ よかった ココルーム開いていてよかった とお客さんのようにおもう



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